Un Libro Illegible Bianco E Rosso / 読めない本 白と赤 / ブルーノ・ムナーリ
Bibliographic Details
- Title
- Un Libro Illegible Bianco E Rosso / 読めない本 白と赤
- Artist
- Bruno Munari / ブルーノ・ムナーリ
- Director
- Pieter Brattinga / ピーター・ブラッティンガ
- Publisher
- De Yong / デ・ヨング社
- Year
- 1964 (Planned in 1953)
- Size
- h260 × w260 × d5mm / cover unfolded h780 × w780 × d0.5mm
- Pages
- 36 pages
- Language
- Cover: Dutch, French, English, Japanese etc Eight languages
- Binding
- Saddle stitching with staples / 中綴じホチキス留め
- Edition
- Limited edition of 2000 copies / 限定2000部
- Condition
- Fine
服部一成 コレクション。
ムナーリが発明した
オブジェとしての本。
FRAGILE BOOKSのロゴマーク、ケアマーク、郵送用宛名ラベルなど、キーデザインの一切を引き受けてくださった服部一成さん。デザインの打ち合わせでなんどかお会いして、わたしたちが好きな本や、本のフラジリティなど、さまざまな本の話題を交わしている内に、「そういえば、ぼくのところにも、すごくフラジャイルな一冊があるんだけど、見てみる?」と言ってご紹介いただいたのがこの本。

オランダの印刷会社De Yong(デ・ヨング)が1953年から1971年まで定期刊行していた「Quadrat Prints」という出版物シリーズの中の、ブルーノ・ムナーリが手がけた一冊。もともと、De Jong の技術を関係者に知ってもらう目的で企画された広報的な出版物で、De Jong 創業者の息子だったデザイナーの Pieter Brattinga(ピーター・ブラッティンガ)が同時代のクリエイターたちに制作を依頼した。ムナーリの他にも、スイス人のアーティスト Dieter Roth(ディーター・ロス)や、オランダ人の写真家 Ed van der Elsken(エド・ファン・デル・エルスケン)など多士済々の顔ぶれで、依頼内容の共通点は、判型が25センチの正方形になることだけだった。
この『読めない本 白と赤』は、ムナーリにとっても「読めない本」シリーズの記念すべき出版第一号となった。1940年代の終わり頃、イタリアの具体芸術運動(Movimento Arte Concreta)を牽引していたムナーリは、出版物そのものの機能と造形を「発明しなおす」という野心に充ち溢れていて、1950年にはミラノのサルト書店ギャラリーで「読めない本」と名付けられた一連のプロトタイプを展示していた。その際は、まだ1冊だけの手作りの作品だったのが、後にある程度の部数として出版することが実現した。それが本書である。
この本は、表紙から出版社名や著者名が消え、本文には読むべきテキストや図版がない。書物をつくるときの約束事をことごとく省いて、白と赤の2つの色からなる紙の造形がページを連ねていく。ふつう紙はテキストやイラストや写真を印刷するためのもので、それ自体がなにかを「伝える」ことはないという本の常識さえも、ひっくり返した。タイトルにある「読めない」は、文字がないことを指しているだけではなく、どのようにこの本を体験するか、という読者(読者と言うべきかもわからない)の想像的な関わり方が「読めない」ことも暗示しているように思える。
かくして、出版の歴史に燦然とかがやくオブジェとしての本が誕生した。それは、文字情報にたよらないコミュニケーションの発明として、出版界の枠を超えてかなり話題になった。ムナーリもこのスタイルを気に入ったようで、その後数十年にわたって、色やサイズの異なるさまざまな「読めない本」を生み出している。ちなみに、日本でいち早くムナーリに注目したのは瀧口修造で、1958年にはムナーリに会うためにイタリアを訪ねている。その滝口が序文を書くと言って、関係各所を納得させて、1965年には伊勢丹6階の催事場で日本初となる個展が開催された。個展に合わせて『読めない本 白と黒』も限定出版された。なお、滝口を通してムナーリと親交を深めた武満徹は、60年代後半に〈ムナーリ・バイ・ムナーリ〉という打楽器音楽まで作曲するのだが、その楽譜は五線譜を使わない図形楽譜で、ムナーリの「読めない本」へのオマージュになっていた。
そんな『読めない本 白と赤』を服部さんが大事に持っていた。包んでいる紙のパッケージが、また素晴らしい。のりもホチキスも針も糸も使わない正方形の大きな紙が、風呂敷のように本を包み込んでいる。この軽やかな仕上げ方こそ、日本の折り紙が好きだったムナーリらしい。
聞けば、服部さんも、この包みに惹かれて手に取ったのだとか。
ムナーリとの出会いから本書の魅力まで、服部さんにお話しを聞きました:
ムナーリとの出会い
高校生くらいのときじゃないかな、わりとその頃には翻訳書も何冊か出ていて、『芸術としてのデザイン』(1973 / ダヴィッド社)とか、絵本では『きりのなかのサーカス』(1981 / 好学社)とか『ムナーリの機械』(1979 / 筑摩書房)とかは、本屋に行くとひときわ存在感があって目立っていました。それにぼく自身、これからデザイン的なことをやっていきたいなと思っていた時期だった。
いま思えば、デザインの世界に興味を持ち始めたきっかけは、ムナーリ的ではなかったかもしれない。雑誌とかレコードジャケットとか街で見かけるポスターとか、そういういうのをかっこいいな、と思っていた方でした。でも、だんだんムナーリに惹かれていった。デザインのほんとうに大事なところだけを取り出している「デザインの先生」といった存在で、すごく刺激を受けた。絵本にしても、絵がめちゃくちゃうまいわけでも、技術的に巧妙なことをしているわけではないのに、身の回りにあるものとアイデアだけで、すごく面白いことをやっていた。
1985年に、銀座松屋6階のデザインギャラリーで「ダネーゼと4人のデザイナー展」という小さな展覧会をやっていた。そこではムナーリのことも紹介されていた。たぶん大学1年生か2年生くらいの頃だったとおもう。そういえば、その同じ年には、いまはもうなくなっちゃったけど、青山の「こどもの城」(正式名称:国立総合児童センター)のオープン記念がムナーリ展でした。80年代半ばには、いろいろな場所でムナーリが紹介されていたんです。
欧州鉄道一人旅
銀座松屋や「こどもの城」の展覧会で、ダネーゼっていう素敵なものを作っている人たちがイタリアにいることを知って、ダネーゼの旗艦店がイタリアのどこかにあることもわかった。そこには、ぼくの好きなムナーリやエンツォ・マーリのプロダクトがあるらしい、ということも。そのうち行けたらいいな、と思っていた。

服部さんが持っているダネーゼの本や知育絵本、ムナーリの展覧会図録など。現在手に入るのは復刻版がほとんどで、貴重な一次資料の数々。
そんな折に、1ヵ月ぐらいひとりでヨーロッパ旅行に行くことになった。大学3年生の終わりの春休みでした。当時はインターネットもスマホもなかったけど、『地球の歩き方』を持って歩くのが流行っていて、いまとは違って、バックパッカー的にいかに安くあげるかということが事細かく書いてあった。それに80年代後半というのは日本も景気がよくて、大学生でも1ヶ月間くらいアルバイトをしたら、ヨーロッパ旅行できるくらいは貯められた。それで、ぼくはロンドンから入って、鉄道乗り放題の「Eurail Pass(ユーレイルパス)」というのを使って、欧州のいろいろな場所を周ることにした。
偶然のめぐり合わせ
いくつかの都市を旅しながら、イタリアに辿り着いた。それで、フィレンツェの街を歩いているときに、偶然あるお店の窓から一枚のカードが見えたんです。そのカードには「MILANO PIAZZA S.FEDELE 2 DANEZE(ミラノ ピアツェ サン・フェデーレ2 ダネーゼ)」と書いてあって、ぼくにはそれがダネーゼの住所だということがすぐにピンときた。それを急いでメモに取ったのを覚えている。これからミラノにも行くから、ついでにダネーゼを探しに行こうと。ミラノに到着して、さっそく書き留めた住所をたよりに行ってみたら、サンフェデーレ広場っていう、わりと中心部の大きな広場にお店があった。

ミラノのダネーゼで購入した商品を包んでもらった包装紙。ここにもMILANO PIAZZA S.FEDELE 2 DANEZEという住所が印刷されている。
ミラノのダネーゼ旗艦店
行ってみたら思っていたよりも小さなお店で、営業しているのかわからないくらい店内も暗くて、どうしようかなと思ったけど、せっかく来たんだし、とりあえずドアを開けてみたら、中に入れた。1階と地下があって、1階にポツンと座っていた事務のおばさんみたいな人に「どうぞ」という感じで迎え入れられた。いま思えば、そのおばさんがダネーゼ夫妻の奥さんだったんだと思う。
期待していたほど、実際はあまり本は置いていなかった。だけど、ムナーリの « PIU E MENO / プラスマイナス »とか、エンツォ・マーリのカードブックとか、マーリのペーパーナイフとかも、ここで手に入れた。帰り際、たどたどしい英語で、日本から来ましたって言ったら「よく来たねぇ」っていう感じでいろいろ丁寧に説明してくれて、福田繁雄さんの『Romeo and Juliet』(1965年 / 私家版)をお土産に持たせてくれた。福田さんはムナーリにすごく影響を受けたデザイナー(前述の「こどもの城」のムナーリ展の図録は福田繁雄が担当した)だったから、ダネーゼでも取り扱っていたみたい。これがそのとき買ったものを包んでくれた包装紙。で、それを入れる細長い透明のショッパーがこれで、これもなんだかとてもいいんだよね。

少し縦長で珍しいかたち(大きさ)のショップバッグも大切に保管している。
その旅では、欧州のいろいろな建築を見たいと思っていたし、いまと違ってまだ日本にはあまり情報が入ってきていなかったから、各都市で本屋さんを見つけたら、とりあえず入っていました。イタリアに行けば、ムナーリの本もあるかな、くらいには思っていました。当時はスマホもインターネットもないから、ほんとうに情報が何もなかった。本屋さん行けば、何か面白いものがあるっていう感じでしたね。

ダネーゼさんからお土産としてもらった『Romeo et Juliet』は世界に数百部しかない私家版。ロミオとジュリエットの感情や場面の緊張感を心電図のような線や図形で表現している。作者の福田繁雄(1932-2009)は「日本のエッシャー」とも呼ばれたグラフィックデザイナーで、ムナーリに大きな影響を受けた。
ムナーリの『読めない本 白と赤』
これは、フラジャイルもフラジャイル。つくりもそうだけど、紙自体、時間が経ったというのもあって、こんな感じになっています。西麻布の事務所に引っ越した後のことだから、2000年頃だったかな。ワタリウム美術館の地下のオン・サンデーズの階段を降りていく途中にこの本があるのが見えて、もともとその存在は知っていたけど、包みにそそられて。そのときはわりと状態も新品に近かったけど、大学で学生たちに見せたりしているあいだに、包んでいる紙がボロボロになってきた。でも、この紙も安価な紙を使っているから、乱暴に扱わなくても時間が経つとこうなるんでしょうね。
奥付は1953年になっています。包みの表紙には、作家のプロフィールとこの本の紹介文が手書きされています。8つの面に8つの国語で。日本語を手書きしたのは、グラフィックデザイナーの大智浩(おおともひろし)だそう。中身の本もこれはこれで完成したすごく面白い本なのだけど、それがちがう遊びごころの包装紙で包まれたこの感じがとくに好きです。
ゆっくり、そーっと。破れないように、ひと折り、ひと折り。包みには8カ国語の言葉が画面いっぱいにデザインされているのに中身の本体には文字がひとつもないというコントラスト。
ブルーノ・服部・ムナーリ・一成
もう、ムナーリがぜんぶやちゃった、と思うことがあります。思いつくのことの原型は、全部ムナーリがやっちゃってる、というか。あの誰でも作れそうに思わせる感じ。絵にしてもうまさよりも、アイデアがあればこんなに面白いものが作れるんだよねって言う感じ。それをずっとやっていた。結果的には特別なものを作りたいんだけど、高級とかそういうことではない、身の回りのものでも、発想ひとつですごく面白いものが作れるっていう、そんな彼のスタンスがすごくいいんです。そういうところは、自分のデザインにも影響があるとおもう。櫛田さんと一緒につくった『Paper Cats』も、その影響があるかもしれない、紙だし、だれでもできそうな感じとかね。
聞き手:櫛田 理
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Profile
服部一成 / Kazunari Hattori
グラフィックデザイナー。1964年東京生まれ。1988年東京芸術大学美術学部デザイン科卒。ライトパブリシティを経てフリーランス。主な仕事に「キユーピーハーフ」「JR東日本」の広告、雑誌『流行通信』『真夜中』のアートディレクション、エルメス「petit hのオブジェたち」の会場デザイン、「三菱一号館美術館」「弘前れんが倉庫美術館」のロゴタイプ、ロックバンド「くるり」のアートワーク、『プチ・ロワイヤル仏和辞典』『仲條 NAKAJO』の装丁など。主な書籍に『服部一成グラフィックス』『服部一成(世界のグラフィックデザイン)』。毎日デザイン賞、亀倉雄策賞、ADC賞、原弘賞、東京TDCグランプリなどを受賞。