選擇・伝統・創造|シャルロット・ペリアン

Bibliographic Details

Title
Sentaku Dentô Sôzô / 選擇・傳統・創造
Author
Charlotte Perriand, Junzo Itakura / シャルロット・ペリアン、坂倉準三 
Publisher
Koyama Shoten / 小山書店
Year
1941
Size
h300 × w220 × 25mm
Weight
1010g
Pages
25p (Booklet), 53 plates / 冊子25p、図版53枚
Language
Japanese / 日本語
Binding
Softcover Booklet and 53 plates bound in cloth binding folder / 布製帙入
Printing
Letterpress and collotype printing / 活版印刷、コロタイプ印刷
Condition
The front side of the binding is slightly soiled and scratched, and the paper binding is missing the lower part / 布製帙の表側少汚れ傷・紙製のおさえ部分下方欠有

ドイツ軍がパリを陥落したその翌日、
シャルロット・ペリアンは
日本へ向けて出港した。

お探しの方には「ペリアンのあの本」のひとことで通じる王道もの。久しぶりに落手しました。これまでここで取り上げてきたものの多くと異なり、比較的よく知られた稀覯本ではないかと思います。稀覯本というのはひねりようがなく、むしろへたにひねって売り文句など並べたりするとボロがでるというもの。今回はご紹介も正攻法でいきたいと思います。

シャルロット・ペリアンは20世紀のはじめ、フランスで生まれた建築家・デザイナーです。1921年にパリの装飾芸術中央連盟付属学校で装飾美術と絵画を学び、1925年のパリ万博、通称アール・デコ博に在学中の作品が展示され、1927年には早くも自身のアトリエを構えます。この年、サロン・ドートンヌに出品した作品でル・コルビュジエとピエール・ジャンヌレに認められ、〝かねて希望していた〟二人のアトリエに入所するなど、早くから頭角をあらわします。鋼管とキャンパス地を使い、ペリアン自ら横たわってみせた写真で知られる寝椅子「シューズ・ロング」を発表したのはコルビュジエとジャンヌレのアトリエ入所の翌年、1928年のこと。退所後も両者の協働者として仕事を続ける一方、自ら活動の場をひろげ、とくに家具や内装で多くの功績を残しました。
女性の社会進出がまだまだ困難だった時代に、世界の第一線で活躍する一流の男性たちと肩を並べて仕事をした稀有な女性であり、また、日本との所縁も深い人物です。彼女の仕事を語る上で欠くべからざる記録のひとつとして、当書はペリアンに興味をもつ方たちにはよく知られた刊行物となっています。

ペリアンと日本の深い結びつきは、1940年の来日によって始まります。来日は、日本の商工省の招聘によるもので、肩書は「輸出工芸指導顧問」。これには、コルビュジエのアトリエで机を並べていたことのある日本人建築家・前川國男と坂倉準三のうち、坂倉の尽力があったとされます。来日の年号でお気づきかと思いますが、戦争が世界中へとひろがっていく激動の時代だっただけに、ペリアンの来日も渡航の時から綱渡りが続きます。1940年6月、ペリアンの乗せた日本郵船・白山丸がマルセイユを出港したのはナチス・ドイツの先鋒隊がパリに入場した翌日のこと。白山丸は、戦火を避けて帰国する日本人を乗せてフランスから発った最後の船であり、岡本太郎、猪熊弦一郎、荻須高徳など、日本人画家が乗りあわせていました。

商工省がペリアンに求めたのは、同省管轄の〝いくつかの指導所で、装飾美術品の製作を指揮すること〟。ペリアンは来日後約三週間後に訪れた日本民藝館で柳宗悦と民藝運動に触れ、京都で河井寛次郎と親交を深めるなど、日本の民芸から多くの示唆を得たといわれます。また、日本民藝館で東北の手仕事に接したペリアンは、東北巡歴に出ることに。ペリアンのこの視察旅行に随行員として付き従ったのが、当時、日本輸出工業連合会の機関誌『輸出工芸』の編集を担当していた当時二十代の柳宗理でした。ペリアンとコルビュジエ、ペリアンと柳宗悦とその息子の柳宗理。ペリアンの仕事に多大な影響を与えた人間模様が、〝モダニズムと日本の民芸が響き合うことで生まれたデザインの名作〟という惹句を生む所以となっています。

来日からわずかに7ヵ月後、ペリアンが日本で手掛けた仕事の成果が展覧会というかたちで発表されます。 展覧会の正式名称は「ペリアン女史  日本創作品展覧会 2601年住宅内部装備への示唆(通称「選擇、傳統、創造展」)」。ちなみに、2601年というのは誤植ではなく、 太平洋戦争中は西暦は使わずに皇紀( 初代天皇である神武天皇が即位したとされる日本の紀年法)を使用したことに因る。『日本書紀』の記述に従うと、日本の元年は西暦紀元前660年となるので、昭和16年は皇紀2601年と表記されたわけです。3月に東京、5月には大阪、ともに高島屋で開催されました。商工省の招聘契約は3月で終了しており、展覧会は日本での活動の集大成と位置づけられます。当書のタイトル「選擇・伝統・創作」はこの展覧会のテーマにあたるもので、柳宗悦はこのテーマについて〝標語を大きくかざしてゐるのも筋道の通った旗印である。特に伝統と云ふことを中に入れたのは、西洋の追従模倣に新しい工藝を感じる日本の人々にはいい薬だ〟と評価しています。

柳が評価した展覧会のテーマを表題とする当書『選擇・伝統・創造』の発行は1941年12月20日。ペリアンが日本を離れたのは1941年の12月初めのことで、日本が太平洋戦争に突入することになった真珠湾攻撃の直前だったといいます。来日も離日も劇的ですが、ともあれ当書はこの展覧会の内容を、しいてはペリアンの日本での活動を記録した数少ない公刊物を代表するものであり、最も詳細かつ総合的に報告した資料となっています。

プレートのほとんどは、ペリアンがデザインしたり、製作を依頼した製品の物撮り写真で構成されていますが、開催時の会場風景を写したプレートや、会場構成図、さらにはペリアンがインスピレーションを得た素材、高く評価した日用品、印象深かった風景や、反対に否定的にとらえた製品の写真なども含まれています。「竹製シューズ・ロング」など、フランスですでに製品化されていた家具を下敷きにした作品も多くみられますが、金属製のパイプの部分を竹に置き換え、キャンバス地にかわって麦藁を使うなど、とくに素材の面で、日本人が古くから親しみ、調達が容易なものにかえられているのが目立ちます。53枚を数える大判のプレートは、製品の細部まで読み取ることができるばかりでなく、レイアウトデザインもモダンで、時代の先端にふさわしい見応えのある作品集となっています。

同封されている冊子のタイトルは「選擇・伝統・創造 - 日本芸術との接触」。著者名にはシャルロット・ペリアンと坂倉準三の名前が併記されています。表紙裏(表2)の欧文「Contact avec l’art Japonais/Charlotte Perriand/Tokio 1941」を直筆と間違えるケースもあるように聞きますが、これは印刷。ペリアンの序文に「この書物によつて私はこの展覧会を指導した私達の考へを展開発展せしめたい」とあるように、「選擇」「伝統」「創造」の三つのキーワードの意味と、キーワード順に構成されたプレート毎の解説が詳細に記されています。また、「後記」をペリアン、坂倉それぞれが寄せている中で、ペリアンの「後記」には展覧会協力者のクレジットがあり、ペリアンが滞日中に交流したつくり手やペリアンを支えたスタッフの名前が明らかにされています。

来日から離日に至るまで、すんでのところでつながったペリアンと日本との縁はよほど深いものだったのか、戦後の1953年には、結婚相手がエール・フランスの初代日本支社長となったのに伴いペリアンも再来日。この時もまた坂倉準三の企図をきっかけに、ペリアンの展覧会が開催されることになりました。『巴里一九五五年 芸術の綜合への提案 ル・コルビュジエ、レジェ、ペリアン三人展』と題した展覧会は、1955年に前回と同じ高島屋で開催され、この時の図録もまた、探している方の多い刊行物となっています。

※〝〟で示した引用部分は全て『シャルロット・ペリアンと日本』(鹿島出版会 2012年・2刷)より


«冊子目次»

序 / シャルロット・ペリアン
選擇・傳統・創造
解釋の誤謬
選擇―傳統
・民俗藝術への探求
・工匠への探求
・選擇編輯
創造
・想像力の探求
・材料と技術との探求
・構成の原理と標準の規格
・全體の構成
・展示の硏究
後記


 
Textby 佐藤真砂


2020年にフランスで開催された大型回顧展
『Charlotte Perriand: Inventing a New World』紹介サイトはコチラ(英語・フランス語のみ)

Charlotte Perriand  Profile
Charlotte Perriand was born on 24 October 1903 in Paris. She studied at the École de l'Union Centrale des Arts Décoratifs from 1920 to 1925. Two years later, she began working as an interior designer, based at her studio on Place Saint-Sulpice. Her research and interest in furniture design led her to collaborate with Le Corbusier and Pierre Jeanneret in the 1920s and 1930s. During this time she worked on major projects including the Villa Church, the Villa Savoye, the Cité du Réfuge for the French Salvation Army, and the Pavillon Suisse at the Cité Universitaire.  A few years later, Perriand helped to found the Union des Artistes Modernes (UAM), and in 1933 she embarked on a photographic research project on the theme of Art Brut, in collaboration with Fernand Léger and Pierre Jeanneret. She focused on objects found in nature, which she photographed in situ or in her studio in Montparnasse. In 1934 she began specialising in pre-fabricated buildings for leisure pursuits, including the Maison au Bord de l'Eau, as well as hotels and mountain shelters. In 1940 Perriand was appointed as the official advisor on industrial design to the Japanese government, and left for Tokyo, returning to France in 1946. All her work thereafter would display a Japanese influence. Major projects followed, notably for Air France (1957-1963) and the Musée National d’Art Moderne in Paris (1963-1965). Perriand’s work has been the subject of many exhibitions, highlighting her "synthesis of the arts" and her singular vision. She died on 27 October 1999 in Paris.

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