但馬の折形標本 Origata samples from Tajima

Bibliographic Details

Title
Origata samples from Tajima / 但馬の折形標本
Artist
Unknown / 不明
Publisher
Unknown / 不明
Year
Around 1906 / 明治39年頃
Size
w230 × h140 × d60mm
Weight
440g
Pages
38 unbound cards / 38枚の独立したカード
Language
Japanese / 日本語
Binding
Cards in a wooden folding case / カードタイプ、木製の拵帙
Materials
Japanese paper / 和紙
Condition
Fine

37種の折形標本。
台紙には雪深い地方で
育まれた物語がありました。

これは民間に伝わる折形の見本帖です。流派や由来は不明ですが、出版物ではない手製本のため、世界にはこの一冊しか存在しない孤本のたぐいの逸品です。

木でできた素朴な拵帙を紐解くと、手漉き和紙の上に、丹念に折られた37種類の折形がセットされています。セットといっても、台紙に糊で貼っているわけではなくて、「紙の留め具」で仮に止めているだけなので、それぞれを取り出して、広げてみることができます。折り目には割印が押してあり、裏にはそれぞれ「神前の男蝶」「神前の女蝶」などの名称が墨書きされています。使い込まれた形跡はなく、大事にされていたことがうかがえる、そんな自家製の本です。

折形をのせている台紙はコットンペーパーのようにふかっとした厚手の手漉き和紙で、何枚かの台紙の裏には「兵庫県 城崎郡蚕種生産販売組合印」や「兵庫県 明治39年検査合格之證 原種」といった朱印スタンプが押してあります。これは、カイコガの幼虫がかかる微粒子病(びりゅうしびょう)の検査が済んでますよ、という証のことで、この台紙がもともと「蚕卵紙(さんらんし)」だったことをものがたっています。「蚕種(さんしゅ)」や「種紙(たねがみ)」とも呼ばれた「蚕卵紙」は、カイコガが卵を生みつける専用の和紙で、半紙10枚ほどの厚みがある、腰のつよい手漉きの和紙です。生糸(シルク)を製造するプロセスの一頭最初に、種屋(専門の蚕種製造業者)が台紙に卵をつけた「蚕卵紙」をそのまま養蚕農家に手渡し、養蚕農家は「おかいこ様」が食べる桑の木を畑いっぱいに植えてそれを受け取り、蚕と共に生活したわけです。貧しい農家にとっては、養蚕による現金収入は貧乏から脱出するための大きな希望でした。

台紙のはなしを、もう少し。裏の朱印に「明治39年」とあることから、この台紙は1906年頃に養蚕で使われたか、何かしらの理由で使われなかった手漉き和紙のようです。「兵庫県城崎郡」というと、かつて「但馬国(たじまのくに)」と呼ばれ、「養蚕」が盛んだった地域。18世紀中頃には高級な絹織物「丹後ちりめん」の生糸産地として発展しました。江戸時代後期に但馬で生まれた上垣守国(うえがきもりくに)は、雪が深く農業だけでは食べていけない但馬の貧しい農家のために日本各地を歩き回り、見聞した養蚕技術を科学的にまとめた『養蚕秘録』3巻を出版しました。それに目をつけたシーボルトがオランダに持ち帰り、嘉永元年(1848)にはオランダ王室通訳官ホフマンによってフランス語に翻訳されて、パリとトリノでも出版されました。その後大流行した「微粒子病」で壊滅的な状態に陥ったヨーロッパの絹織物産業を助けるだけでなく、明治維新後には日本が世界一の生糸輸出量を誇るに至るきっかけをつくりました。但馬の養蚕業は、但馬の養蚕、丹波の製糸、丹後の織物と地域分業で発展し、昭和に入るとナイロンなどの化学繊維や外国産シルクに押され、ついに途絶えてしまいました。

このような背景がある和紙を台紙に転用させた「折形標本」というわけです。作者は不明ですが、おそらく養蚕農家や種屋、もしくはそこにアクセスすることができた関係者の中に、礼法の心得がある人物がいたのでしょう。「おかいこ様」の命を宿した養蚕紙は、未使用であってもきっと神妙な感覚で扱われていたはずです。戦争や化学繊維の登場によって、養蚕農家やシルクをとりまく但馬の生態系のどこかに、使い手を失った大量の養蚕紙が残されていたとしても。

野生にはいない蚕は、人間の助けがなければ生きていけない。貧しい農家も養蚕による収入がなければ、寒い冬をしのぐことができない。互いに持ちつ持たれて共生していたその姿は、心を紙に包んで贈り合った折形にも通じるものがあるのかもしれません。



Text by 櫛田理



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