プレスアルト 36号

Bibliographic Details

Title
プレスアルト36号 / PRESS ART No.36
Editor
脇清吉/ Seikichi Waki(校閲:本野精吾 / Seigo Honno、霜鳥之助 / Yukihiko Shimotori 、向井寛三郎 / Kanzaburo Mukai)
Publisher
プレスアルト研究会
Year
1940
Size
h300 × w250 × d20mm
Weight
730g
Language
日本語 / Japanese
Materials
紙 / Paper
Condition
タトウ背少傷有、収録印刷物実物及び台紙極美 、印刷物実物1点欠/ Very Good

冊子:レートン国策水彩絵の具ポスター図案審査合評(霜鳥之彦、今竹等)ほか 実物:護れ銃後の展覧会ポスター(大丸・柴田)、帝国海軍展覧会、里見宗次氏初公開・戦時下の世界を知るポスター展(安部倶一)ほか23点、1点欠(No.24 自動車シボレーカタログ)

京都の古書店店主が
日本の商業デザイン史を変えた
まぼろしの印刷広告標本。

今回日月堂の佐藤真砂から届いたのは、毎週欠かさず古書市場へ通い続ける佐藤さんでも、十年に一度出会えるかどうかという、幻の一冊と呼ぶに相応しい『プレスアルト』です。

『プレスアルト』とは、1937年に、京都の古書店・ワキヤ書房店主であった脇清吉氏が創設した事業「プレスアルト研究会」が発行していた、広告印刷物やパッケージ、包装紙などの「実物」20数点に、批評や印刷物に関する情報(作家名、企業名、印刷仕様等)を掲載した冊子をつけ、タトウに収めて発行した会員向けの月刊誌でした。
印刷物実物はタトウに収納するのにあたり、印刷物に関する情報を記載した台紙に切込みを入れて挟み込むか、ポスターなど大きなものについては現物に情報を加刷するかのどちらかの方法がとられており、接着剤など一切使わず、実物を"可能な限りそのまま" "隠れる部分なく全ての紙面をみることができるように" 届けようとした意図が伝わってきます。
1937年にはじまり、1941年以降は冊子形式へと姿を変えて、少なくとも1977年まで約40年間継続して発行されました。

今回お届けする36号に含まれている印刷物には、例えば大丸宣伝部の「護れ銃後の展覧会ポスター」や、三菱電機の「三菱タレット旋盤インゼラート」、モロゾフ製菓の「チョコレート包紙」をはじめとする、あらゆる分野の印刷広告が含まれています。大手百貨店や製造メーカーなど、現在に至るまで名の知られている企業も多く扱われていることがわかります。

36号の冊子本体について少し。表紙は、大阪大丸宣伝部の柴田可壽馬が担当。表紙裏には、この表紙をデザイン構成するにあたっての柴田自身の短い言葉が書き留められています。巻頭に印刷広告、宣伝広告について「研究」の名に相応しい真面目なコラムがあり、4ページ目の見開きでは、本書の校閲も担った京都高等工芸学校(現・京都工芸繊維大学)の教授である向井寛三郎が小気味良い月評を展開。

批評は、構図や印刷技法の精度、色味や意匠の良し悪しを鋭く突っ込みます。続く6ページ目以降は、採用された作品の中から選ばれた作者本人が何名か登場し、批評された作品に対して自ら解説を行っており、この構成がとてもつもなく斬新で面白い。作者本人にしか知り得ない、紙の価格が高過ぎて節約のために判型を変えた話しや、計算した印刷で色の再現に苦戦した話しなど、現在のクリエイターと同じように試行錯誤した過程が手にとるように書かれており、前出の批評内容と相まって非常に実践的な情報誌として完成するという仕掛けです。

後半には、レートン国策水彩絵の具ポスター図案審査合評が展開されます。「特選」から「佳作十」まで計16点について、霜鳥之彦(洋画家、浅井忠やシャルル・ゲランに師事した)をはじめ、今竹七郎(輪ゴム「オーバンド」の黄色と茶色のパッケージ、メンソレータムのナースをデザイナー)、小畑六平(デザイナー、昭和11年の《輝く日本大博覧会》ポスターのデザイナー)など、錚々たるメンバーが審査員として登場し、当選作品について惜しげない称賛と激励の言葉を書き綴っています。

批評もして、作者の解説も付け、作品実物も一緒に届ける。世界を見渡しても、類を見ないこの雑誌の特徴は大きく2つあると言えそうです。

ひとつは、一般流通していないこと。なぜ一般流通しなかったのか、それは既述の通り『プレスアルト』が会員限定で配布制の雑誌だったから。そのため、発行部数も特定少数に限られていました。『開封・戦後日本の印刷広告:「プレスアルト」同梱広告傑作選〈1949-1977〉』(創元社)によれば、発刊当初は100部、3年後には300部、1941年以降は冊子のみの会員を募り650部ほどを発行していたそうです。100部、300部と言うのは簡単ですが、実際に印刷物実物を集めるだけでも大変な作業です。冊子に以降した後の部数650部も、決して潤沢な数だとはいえません。そもそも作られた数が少なかったことで、ほとんど人に知られることなく、記録として残される機会も減るのが道理というもので、ほぼ全号を所有していると周知されている所蔵先は、大阪中之島美術館のみだそうです。

もうひとつの特徴は、印刷広告の実物を本体に挟み込んだこと。実物の大きなポスターは折りたたまれ、冊子や包み紙などは、台紙に入れられた切り込みに角を挟み、固定されています。台紙には、名称、出品者、デザイナー、印刷技法や種類、用紙仕様、印刷所が記入されており、「いつどこで誰がどんなふうに」という制作に関わる重要な情報がすべて網羅されています。インターネットもなく、他社の広告を入手することが難しかった当時、主な会員は、企業の宣伝部員、印刷会社の企画部に所属の企業内部デザイナー、独立事務所を構えるデザイナーなどクリエイターが多かったようです。

挟み込む実物の広告印刷物は、「プレスアルト研究会」を主宰する古書店主の脇清吉が自分の足で、広告主を訪ね歩いて収集したそうです。訪ね先は印刷所に留まらずあらゆる事業主、またデザイナーにも及びました。その中には、資生堂のグラフィックデザイナー・山名文夫も含まれていました。山名文夫は脇清吉と親睦を深め、後には脇清吉を高く評価した代表人物となりました。その功績はというと、脇清吉は、東と西(関東と関西)の商業デザイナーの交流を生み、更には『プレスアルト』をスイスの商業美術誌『グラフィス』へ送り、日本と海外のデザイン交流に貢献したということです。

デザイン、写真、社会、経済、政治、生活文化、美術、メディア、印刷等、『プレスアルト』が伝えたメッセージは実に奥深く、幅広い。1937年〜1977年までの日本の印刷広告を閉じ込めたタイムカプセルとも言えそうです。なかでも創刊当初から4年ほど続いた実物を挟み込むこの仕掛けが、まるで昆虫標本でもあるかのように、当時の印刷技術や資材、デザインの流行や社会情勢まで、あらゆる史実を現在に伝えています。

Text by 乙部恵磨


<参考資料>
『開封・戦後日本の印刷広告:「プレスアルト」同梱広告傑作選〈1949-1977〉』が創元社

Out of Stock